フランスのパリを続けて訪れていた時期があります。
19世紀半ばの都市改造をはじめ、パリにはたびたび手が加えられています。
手の加え方には熟慮に基づくものも、思慮が足りなかったと人びとが後に省みて教訓とするものもありましたが、そのように「年齢」を重ねてゆくことでパリの風景に深みがもたらされていることが、私にはとりわけ魅力に感じられました。
古い建物の内部空間を改修して博物館にしたり、廃止された鉄道路線の高架橋の上を緑道に、アーチの下はカフェやギャラリーにしたり、都市風景が豊かに年齢を重ねてゆくように人びとの創意が生かされていることも魅力的です。
ただし、これはパリやその他のヨーロッパの都市風景についての平凡な感想のひとつであろうと思います。
公的な建物や橋や道路は、社会の基盤を成す資本施設として、税金を費やして整えられます。しかし、日本ではそれを大切に維持、管理し、時には大胆に改修をしながら歴史に意味を帯びさせて資本の価値を高める努力は、あまりされていません。
この国の社会の資本の整備は、ほぼそれらの新設に際してのみ富の再分配を図っているかのように行われます。
豊かに年齢を重ねてゆく風景が、人びとに来訪を、ひいては移住を促し得る可能性など、念頭にないようです。
このことは、地域の経済の持続を損ねかねない問題と考えられます。
また、人びとはある地域で共に暮らし、働くことを通して、身の回りの世界、風土をかたちづくり、その中に生きています。日々のできごとがさまざまな場所で起こり、それをある時は懐かしく、ある時は悲しく思い出すことなどもしながら、私たちの日常は豊かなものになっていってはいないでしょうか。
そして、豊かに年齢を重ねてゆく風景に、私たちは記憶の一部を預けることもしていないでしょうか。
大きくつくりかえられてよい風景もあると思います。
しかし、厳密に見てその必要がないといえる風景は、例えば、それが建物を主要素としてできているならば、その建物が工夫をこらして使い続けられる限り大きくつくりかえることをしない方が、人びとの記憶のよりどころのひとつが残されて好もしくはないでしょうか。
必要なく風景を大きくつくりかえることは、風景を理由なく欠損させることにつながるものと考えられます。
そして、人の心と風景の関係をこのようにとらえれば、風景の欠損は、ある人びとがそこに生きていると感じる身の回りの世界や、心の中の記憶の欠損を生じさせかねないとは考えられないでしょうか。
風土研究の上に、生活者を主体とした風土形成を支える環境デザインを探求する者として、このような風景の見方をここで提起します。
廣瀬 俊介 (ひろせ・しゅんすけ)
1967年千葉県市川市生まれ。環境デザイナー。東京造形大学デザイン学科II類環境計画卒業。元東北芸術工科大学大学院准教授。現在は、同大学と東京農工大学で集中講義を担当。地域の総合科学・風土学的調査に基づいて、公園、道路、洪水調節池、水資源涵養・防災保安林、建築外構などの計画・設計や地域の持続的な将来の構想までを手がける。著書に『町を語る絵本 飛騨古川』 (飛騨市、2003年) 、『風景資本論』 (朗文堂、2011) などがある。
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